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包みを解いてあらわれるもの

このごろ「発達」という言葉をよく聞くようになりました。その意味をよく考えてみたくなりました。「発達」とは、「生体が受胎してから死に至るまでの間におこる心身の機能や形態の変化のうち、一時的、偶発的なものを除き、長期にわたる系統的、持続的、定方向的な変化を発達という。このように定義された発達は、増大や進歩などの上昇的過程だけではなく、普通は発達とよばないような縮減や退行などの下降的変化をも含むことに注意しなければならない。」(出典:藤永保 「日本大百科全書」)

私が以前、教科書で、発達は段階を経て一つ一つ順番に進んでいくもの。前進するけれど、段階を飛ばしたり後もどりすることはないもの、と学びました。でも発達には“下降的変化をも含む”と知りました。

「この言葉(発達)が生物学の方で用いられる場合、個体がその種(ハトならハトという)としての完態に近づく過程を意味していた。それはまた、一面からいえば、種としてのあらかじめ与えられた可能性として胚の中に包み込まれていたものが展開し、実現されていくことでもある。」(山下栄一「子供の成長と教育のあり方」より)

生物学での「完態」は、その種にあらかじめ決められている姿、ということでしょうか。ヒヨコがめんどりになったとき、子犬が成犬になったとき。とすると人間も心身が成熟したときが「完態」です。すると、私たちはこの後はどうなるのでしょうか。

かつて発達心理学では、成年期の状態を一つの「完態」として、そこに向かう過程を「発達」と考えました。ところが、医療が進み老齢者の人口が増えると、人間の「完態」は成年期でなくその後も発達を続ける、と考える研究者が出てきました。

それが発達心理学者のエリクソンです。成年したのち中年になり壮年になり老年になり…、人は発達を続けます。それぞれの時期にのりこえるべき発達課題と、獲得するものがある。老年期は終わりではなく円熟期と考え、人生の集大成として「自我統合(ego integrity)」を求めて「英知」を獲得する時期と考えました。

人は人生の最後まで発達を続けると言われると、私のような中年は「あの時さぼってやり損ねたこと、学び残したことに今から挑戦してみよう。」となるのですが、小さな子を持つ親御さんが「発達」を口にするとき、「この月齢ならこうあるべき」という、いわゆる基準のために表情が曇ります。

山下栄一先生はさらに言います。「(人間としての)「完態」の内実は、社会的に決められてくることになる。つまり発達は、社会の期待する人間像に近づいていく過程としてとらえられてくる。資本主義的な生産の能率をあげることに、どれだけ寄与できるか、という点からみた能力で、人間を序列づけるという価値意識が支配している。」(山下栄一「子供の成長と教育のあり方」より)

30年くらい前、全ての日本人は自分たちを「中流」と思っていました。でも今では「勝ち組」「負け組」を意識する、格差のある社会になったそうです。子どもの幸せを考えると、どんなことでも平均に達していないことが、親の不安をあおるのです。

でも私たち、顔も考え方も一人ひとり違っているように発達も一人一人違って当然で、今お箸が持てないから、おむつが取れないからといって、大人になっても出来ないとは限りません。それより子ども時代の、いま全てが初めてで新しくて、きらきらしている瞬間を大切に過ごしてほしいと思います。

ところで、英語で「発達」は“development”ですが、それはde + velop + ment から成り、「包み(velop)を解いて(de)姿をあらわす」という言葉なのだそうです。まるで、薄い花びらが時間とともに、ひとりでに開くようなイメージでしょうか。ミヒャエル・エンデの「モモ」にでてくる、“時間のみなもと”に咲く、はすの花を思い出しました。